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ガンダムコミックを語る10「クロスボーンガンダム」後編
 クロスボーンガンダムの存在を初めて知ったのは中学生のときだったと思います。本屋で見かけたんですが、買う気は起こりませんでした。「クロスボーンガンダムって敵がガンダム作るのかよ、しかも絵ダサッ!」というのが初印象(笑)中身も見ずに、こんなのがF91の続編なんて認めねーとか思ってました。そのファーストインプレッションがあるから、今でもクロボンにどこか引っかかるところがあるのかもしれません。内容がいいのは分かる、分かるんだがしかし!みたいなね。
 まぁそんな前置きはここまでにして、この作品の特徴が「ダブルヒーロー」なところだと言うところから始めましょうか。

 よく少年漫画(主にジャンプ)には二つの主人公のパターンがあって、それが「どんなときも絶対負けない無敵型」と「最初は弱いけど不屈の闘志でどんどん強くなる成長型」なんですが、その両方をやっちゃってるのがこのクロスボーンガンダムなんですよね。これも、富野・長谷川というダブルヒーロー(?)だったから成せたことなんでしょう。そういう意味じゃ、富野監督が一人でやろうとして失敗したクワトロ・カミーユのダブル主人公をここで完成させたとも言えます。しかも上手いことに、ちょうど半分でキンケドゥメインからトビアメインにストーリーが切り替わる。このプロットの完璧さが、この作品の第二の特徴であります。それは原作が富野監督だからというのもあるでしょうが、おそらく打ち切りも引き伸ばしも予定されていなかったからなんじゃないでしょうか。漫画と言うのは基本的には、終わることを前提には作られないので、どうしても行き当たりばったりなストーリーになりがちです(この辺はTVアニメも似たようなものですが)。そのためプロットはどんな名作でも多少崩れてくるんですが、それがほとんど無いのがこの漫画なんです。話がちゃんと積み重ねられてるんですよね。最後はちょっと勢い任せだった気もしますけど。

<クロスボーン・ガンダムX3>
 このX3は極めてSEED的な機体です。ムラマサブラスターはシュベルトゲベールの原型のようなものですし、Iフィールドでビームを曲げるという演出はフォビドゥン、掌から出すというのはデスティニーですからね。そういう意味で、長谷川氏の「活劇」と福田監督の「殺陣」っていうのはかなり同一に近いのかなぁとか思ったりします。まぁ「わかっててやってる」のと「わかったふりしてるだけ」という大いなる違いが両者にはありますが…。

<シェリンドン・ロナ>
 この作品は当初は単にクロスボーンバンガードが少数戦力で木星軍を攻撃するだけの話なんですが、そこから大きく変化するきっかけを作るのがこのシェリンドンです。彼女の思想は多少宗教じみてはいますが、シャア・アズナブルの考えをほぼそのまま継承しています(後のメタトロンの関係者だったりして)。そしてベラもトビアもそれを否定するという流れは、すなわち初期ガンダム・サーガの否定でもあるわけです。逆シャア以後、F91にしろVにしろ、旧ガンダムの要素はできるだけ避け続けてきた富野監督ですが、ここに来て明確にアンチテーゼをぶつけてきたと言えます。

<森に想う>
 さらにトビアが地球に降りてきたことによって、旧ガンダムからの転換は加速します。それまで魂を引く重力の井戸という描かれ方だった地球が、偉大なる存在として変わるのです(兆候はガイア・ギアやVガンダム最終回にありましたけどね)。ただそれも、人類のフィールドが木星にまで広がった結果、地球の大きさに気づくという流れだったわけですから、クロスボーンでなければこの変化には辿り着けなかったと言えます。

<敵意という名の隣人>
 クラックス・ドゥガチという存在も、今まで通りの富野ラスボスとは一風変わった存在です。娘に対する感情や地球を焼くことをためらわない部分は、おそらく鉄仮面でやりきれなかったことの清算の意味もあるんでしょうが、それまでの富野ラスボスがどこか理屈・イデオロギーで世界を破滅に導こうとしていたのに対し、極めて個人的な感情に根ざしていたというところが富野作品としては革新的だったのではないでしょうか。シャアも似たような存在ですが、彼はギリギリまでその感情を隠し続けていましたから、ドゥガチはそこから一歩進んだ悪役だったと言えると思います。そしてその先に感情の塊みたいなギンガナムが生まれると(笑)

<人と継ぐ者の間に在る者・トビア=アロナクス>
 ニュータイプ能力を持ちながらニュータイプであることを捨てた者、それがトビアです。長谷川氏の感情をそのまま体現しているキャラですが、彼の「決着は人間の手でつけます」という言葉は、長谷川・富野両氏の共通の結論だったんじゃないかなと思います。ニュータイプになんてならなくてもいい、人も捨てたもんじゃないというブレンから∀に向かっていく過程の出発点が、まさにこのトビアというキャラクターだったのでしょう。つまり、彼こそが「人と継ぐ者の間」だったというわけです。

「きっとそれは"新しい時代"を迎える前に"人"が"人間"のまままだできることが、やらなきゃいけないことが残されているっていう意味だと思うから。たとえ…それがあと何千年…何万年かかろうと…きっと」
 そして…風が、吹いた。

 クロスボーン・ガンダムは、壮大なるターンAの序章だったのだ!とまとめて今回はお開きで~す。

「機動戦士クロスボーンガンダム」
原作:富野由悠季 漫画:長谷川裕一
連載:月刊少年エース'94年12月号~'97年3月号
コミックス:全6巻(1995年3月10日~1997年6月5日)
普及版:上巻・下巻(2003年9月1日初版)
外伝「スカルハート」:2005年1月22日初版
(連載:ガンダムエースNo.7、13~15、26、少年エース’03年10月号)
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コメント
コメント
ふむ
実はスパロボで知った若いガンオタ(笑)
私はあのマントが良いと思いましたが(妙に似合ってる)
古本屋などで探してみますか

スパロボでもクラックス・ドゥガチの最後は印象的でしたね。彼は彼なり「地球」を愛していたのでしょうか?
<森に想う>ですが過去のSF作品でも「地球」は偉大な星として表現されてました、やっぱり地球が一番安心できる星なのでしょう。UCでは地球よりも宇宙だといってどんどん開拓しましたが来るべきとこまで行って始めてその良さが解るものなんですかね。
2005/11/04 (金) 23:51:09 | URL | CRS #-[ 編集 ]
いや自分も内容自体はGジェネで知ったんですけどね(爆)

ガンダム+マントというのは割と前から追求されてきたようで、
古くはνガンダムからマスターガンダムを経て最近ではジャスティスがそういう意図のデザインになってますが、
モロにそのまんまのマントをガンダムに装備させるというアイデアは長谷川氏でなければ思いつかなかったんじゃないかなと(笑)

>ドゥガチの最期
彼は地球を妬んでいたんでしょう。そもそも地球に住んだことが無いようなので、憧れこそあっても愛情は無かったんじゃないでしょうか。

>森に想う
普通は地球は偉大なる星として描かれるんですよ。そこをあえてそうしなかったというか、忌むべきは地球ではなく地球人っていうのがそれまでの富野作品だったんですよ。
それが、富野監督自身が地球人というものに少しは希望を持てるようになって、地球の描き方も変わってきたんでしょう。
2005/11/05 (土) 07:05:10 | URL | ルロイ #-[ 編集 ]
これは!
#クロスボーン・ガンダムは、壮大なるターンAの序章だったのだ!
そう言われては読まねばなりますまいっ!

今夜こそ「恋人たち」観に参ります!
ネタバレへのご配慮に感謝します!!
2005/11/05 (土) 14:53:50 | URL | 囚人022 #TJwDdEqg[ 編集 ]
長谷川絵に抵抗が無いなら是非読んでくださいませ~。

「恋人たち」は第一部のイメージで見ると痛い目を見ると思うので、ニュートラルな視点でどうぞ…。
2005/11/05 (土) 20:16:08 | URL | ルロイ #-[ 編集 ]
余裕があれば
金銭的、心理的、時間的に余裕があるのであれば、是非、長谷川先生の他作品もお読みください。
壮大なSFが好みならマップス、タイムパトロール物ならクロノアイズ、ファンタジーならダイソード。スパロボ好きなら、超電磁大戦ビクトリーファイブなどがお勧めです。まじで。
同じようなことを色々なところで言っていますが、あえてこの場を借りますね。
2005/11/07 (月) 17:28:37 | URL | ポルノビッチ・エロポンスキー #4FJT5Uw2[ 編集 ]
ガンダム以外の長谷川コミックってなかなか見かけないんですよね(汗)
機会があれば読んで見たいとは思うんですが…ガンダムという補正なしであの絵に入っていけるか正直自信が無かったりします。
2005/11/07 (月) 22:53:40 | URL | ルロイ #-[ 編集 ]
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