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がんだまぁBlog
ガンダムネタだけを語るブログです。
月初のガンダム以外の話「『ウチとソト』と『公私』の概念の間で揺らぐ日本人」
 久々にガンダム以外の話を。最近痛感することが多いので思考を吐き出すために文章にします。

 「ウチ」と「ソト」という概念は、日本人特有の文化であるとされています。一言で言えば、自分以外の人間を「身内」と「他人」に分類する文化ということになるでしょうか。この概念は本当に根深くて、様々な「日本的」と言われるものに登場します。企業における「日本的経営」とか、スポーツにおける「日本人らしい戦い方」というのは、いわゆる「ウチ」の結束力を重視したものと言え、これにはメリットとデメリットが両面で存在しています。


 この「ウチ」の概念が欧米などの外国と比べてメリットとなり得るのは、「ウチ」が公私の「私」の領域までカバーすることができるからです。欧米的な概念である「公私=オフィシャルとプライベートの区別」で言うと、企業やスポーツチームというのは「公」の部分に含まれ、「私」の部分は家族や親族に限定されます。例えば、スポーツにおける外国人助っ人選手は、子供が産まれると試合の日でも帰国しますが、これは「公」よりも「私」を優先する文化の表れであり、欧米では当たり前のものとして受け入れられています。
 一方、日本の「ウチとソト」の考え方では、「ウチ」は自分が所属しているもの全てを指します。小さい頃は、それは家族だけというのが一般的ですが、大人になるに連れて、学校や部活、ゼミやサークル、企業や取引相手など「ウチ」の領域がどんどん広がっていきます。そして、「ウチ」同士の間では、「私」の領域にも干渉します。というか、「私」の部分を犠牲にして「ウチ」のために生活することを求めるのが日本的な「結束」の文化です。
 単に「私」を犠牲にすることが日本的というわけではありません。欧米でも、「私」を犠牲にすることでより大きな成果を挙げる、という発想は存在しますが、それは「私」を犠牲にして「公」を優先することであって、「ウチ」を優先することではありません。日本特有の「ウチ」という文化は、欧米でいう「公私」のどちらにもまたがって存在するものと言えます。

 日本人は長らくこの「ウチとソト」の文化により歴史を重ねてきましたが、欧米的な「公私」の概念が徐々に浸透するようになってきました。これにより、「ウチとソト」と「公私」の文化が混在し、現代の社会で様々な歪を生み出しているように感じます。
 特に色濃く出ているのが、「ウチ」による「私」への侵食に拒否感を示す世代が増えてきたことです。例えば残業は「ウチ」のための行為であり、企業人は会社が「私」であり「ウチ」であったことから当然のものとされてきましたが、「私」の概念がある人間にとっては、「私」の時間の犠牲を強いるものでしかありません。会社の飲み会などもそうで、「ウチ」の会合は「私」の会合と同義だったものが、「公」の会合と認識されるようになったことで苦痛に感じる人間が増えているのだと思います。様々な場所で見受けられるハラスメントも、かつては「ウチ」の中なので許されていたものが、「私」の立場では苦痛でしかないために、人権を侵害するものとして表面化しているのでしょう。
 これは要するに、「ウチ」と「私」を混同している層と、「ウチ」を認識せず「公私」の概念で物事を判断している層が食い違っているのだと言えるのではないかと考えます。前者は「ウチ」の領域を広げることが社会の成功だと認識している層でもあり、それ故に自分が身内だと認識している人間は全て親しい家族と同じように接してしまうという問題点があります。

 もう一つ存在している問題が、「ソト」への排他性です。元々、「ウチとソト」の概念において、「ソト」とは完全なる他者であり、どちらかというと無関心な存在でした。ある意味では日本のセクショナリズムの元凶とも言え、「ウチ」でない者は存在していないのと同じようなもので、干渉される筋合いはないし協力もしない、ただ相手から礼を持って近寄ってきた場合は、客人として相応にもてなし、仲良くなれたら同じ「ウチ」側に入るという考え方が日本の伝統的な「ウチとソト」のコミュニケーションでした。この「ソト」という存在が、特にインターネットの発達と合わさる事により、「いくら攻撃しても反撃が届かない、いくら傷つけても自分が傷つかない相手」とみなされ、無制限に攻撃して良い存在になってしまったように感じるのです。
 特に、昔の日本では「ウチ」の領域を広げるのが大人の使命であり、年齢と共に「ウチ」は広がっていくのが当然だったものが、「公私」の概念が生まれたことから、「ウチ」を広げずに「公」の世界だけで社会生活を送ることが可能となったことで、「公=私ではないが社会生活上接することが避けられないもの」の更に外側にいる「ソト=全く接点のないどうでもいい他人」というカテゴリを生み、更にそのエリアとインターネットを介して繋がれるようになったことから、それらを必要以上に攻撃する人を生んでしまったんじゃないかなと思うのです。

 「ウチ」の文化の最大の問題点は、私的な人間関係をベースとすることから、物事の判断が客観的なものではなく主観的なもので行われるという点です。このため、判断の主導権を握っている人間が優秀な主観を持っていれば問題ないのですが、ズレた主観を持った人間が主導権を握るとたちまち正常な行動を取れなくなるというリスクがあります。しかし「ウチ」の中ではそれが矛盾なく成立している限り、ソトにはそれが現れて来ず、どんどんガラパゴス化していってしまう可能性があります。極端な場合、「ウチ」の中でのみ通用するローカルルールが、どんな憲法や法律よりも優先されてしまい、本来あり得ないような非合理的な決定が下されることがあり得るということです。日大のパワハラ問題などが象徴的ですが、太平洋戦争での敗戦を生み出したのも同じ問題で、要するにローカルルールに支配され本来取るべき行動が取れなくなると、間違っていると分かっていてもその方向に進むしかなくなってしまい、破滅してしまうというリスクが非常に高いのです。また、このローカルルールが先鋭化しすぎると、他の「ウチ」に適応できなくなり、嫌でもずっと「ウチ」の中にいるしかなくなってしまうという問題もあります。なんかこういう言い方をするとカルト宗教に似ていますが、まぁ「私」を犠牲にして強制的に集団内で共有させるという意味では本質的には同じなのかもしれません。
 また、「ソト」の文化の最大の問題点が、「外側の世界に徹底的に無関心になってしまう」という点です。自分のいる「ウチ」側だけが自分が生きる世界となってしまうことから、その「ソト」に異なるルールで生きている人間がいることを見えなくしてしまうという問題があります。これがあるために日本人は基本的人権というものがいまいち許容できないとさえ思っています。基本的人権は「どんな人間にも等しく存在する平等な権利」ですが、「ウチとソト」の文化では他人に絶対的な序列をつけてしまうため、「ウチ」と「ソト」が平等になることはあり得ないと考えてしまうのです。むしろ「ソト」の人権を無視し、「ウチ」の人権を守ることで「ウチ」という共同体が存在し得ているとさえ言えます。ある意味では「ソト」とみなされた存在は社会的にいないと同義になってしまい、それは本来認識しなければならないリスクやチャンスを見過ごしてしまう可能性があります。

 では、日本人は「ウチとソト」の文化を捨て去るべきなのかというと、それはそういうことではない、と思います。日本人がいくら欧米的な文化だけを受け入れても、欧米人にはなれません。これまで培った文化の先に現代の日本人がいるわけで、その文化による強みがこれまでの繁栄を生んできたのも事実です。しかし、だからと言って「公私」の概念をなくすことも不可能でしょう。これだけ外国人との接点が増えた世の中になったわけですから。
 なので、必要なのは「公私」と「ウチとソト」の両方の文化と上手く折り合いをつけて付き合わなければならない、ということなのだと思います。そのために必要なのは、「私」を尊重しつつ「ウチ」の存在を受け入れることと、「ソト」に対して無関心にならず「公」の立場で存在を認識し続けることなのだろうと思います。

 特に「私」と「ウチ」の概念は衝突しがちです。「ウチ」の広さこそ全てと思っている人種と、「ウチ」を広げず「私」の領域だけで生きていたいという人種は反発し合います。というかこの国の場合、「ウチ」の世界を広げることが出来なかった人種が「私」の世界に埋没している傾向があるため、余計にそうなってしまうのだと思いますが、その「私」に埋没した人間が家庭を持ち子供を作るとその子供も「私」に埋没することを当たり前として受け入れるため、それが徐々に「私」重視派を増やしてきているのだろうと感じます。そこに育った家庭、あるいは生きた世界の違いで「私」派と「ウチ」派の断絶が起きているようにも思うのですが、本来はどちらも大事なのだろうと個人的には思っています。「私」を一番大切にすることが重要で、しかし時には「ウチ」のために犠牲にしなければならないことも瞬間的にあるということ。「ウチ」の力が物凄い成果を生み出し得るのは確かだと思うからです。いわゆる「祭り」という文化は、「ウチ」のみんなで共有してフルパワーを発揮する文化なのではないかと個人的に思っています。「この時この瞬間だけは特別」という状況に限定し、「ウチ」側にいる人間が持てる力を全て投入し、みんなで楽しむのが「祭り」で、これを仕事に応用しているのが「日本的」な戦い方なのかなと思うのです。そこには「その時だけに限定」という条件が必要で、これが常態化してしまうと過労とかそういう問題に化けてしまうのだろうと思います。「祭り」状態のフルパワーを常時発揮させれば誰にでも勝てると言えますが、それが出来ないから「祭り」なのであって、それを常時要求するのは無能の証明であると言えます。「ウチ」と「私」の折り合いこそ日本人が持てる能力を最大限に発揮するヒントなのではないかと思いますね。
 そしてもう一つ大事なのは「ソト」の否定とでも言いましょうか、「私」を大事にするのであればそれ以外の世界は全て「公」と認識すべきで、「ソト」と認識すべきものではないということです。「ウチ」優先の「祭り」状態のときは、「ソト」は認識から切り捨ててもいいのかもしれませんが、それはそのときだけで、それ以外は「ソト」の世界ともしっかり付き合っていなければいけないということです。そうでなければ、全く異なる文化で生きる外国人と共存することは出来ないのですから。そういう意味では「ソト」の世界を「おもてなし」するのが絶対の正解ではないのだろうと思います。「おもてなし」は相手が「ソト」側の人間であるからこそできる丁寧な応対であって、「ウチ」側に属しているときの一つのビジネススキルに留めておくものなのかなと考えます。より相手を知り、相手に合わせた対応をすることが必要になるときもあり、それは誰にでも丁寧に接する「おもてなし」では成し得ないのではないかと思うからです。
 更に加えるならば、「ウチ」同士の争いというのも避けなければなりません。政治の世界などにありがちなのが、「自分たちと反対の考え方の人間はどうなっても良い」という発想で、これは左右どちらの思想にも極端になるほど見られるものですが、これこそ典型的な「ソト」の発想で、どちらも「ウチ」の概念で物事を考えているが故に起きる現象だと思っています。「ウチ」の立場に固執するあまり、「ソト」への排他性を強めることは、互いに殲滅するまで行われる消耗戦にしかなり得ず、合理的な争い方とは言えません。相手の立場を認めた上で衝突するべき部分だけで争う「公」の立場を取ることが必要です。その意味でも、「ウチ」の概念は限定的であるべきだろうと思います。

 これらをまとめると、要するに日本人の「ウチ」の結束力は一つの武器ではあるが、これは常時続かないスーパーモードのようなものだということです。続けているとバーサーカーモード化し、自分が潰れるまで止まらなくなる恐れさえあります。これを捨て去るのは惜しいが、ずっとスーパーモードでいることはできないので、普段は「公私」の世界で生きるべきなのだろうと思います。「ソト」の文化はデメリットの方が大きいことからも、「ウチとソト」の概念は限定的に使うべきですね。
 その意味で、「ウチとソト」の概念のみで生きる古い人種は否定すべきなのですが、だからと言ってすぐにこの世から消えることもないと思うので、こういう人たちと上手く付き合っていかなきゃいけないのが、今の日本人の辛さということなのかもしれません。特に子供や若い世代を積極的に「ウチとソト」の世界に引き込もうとする人間とは、戦わなきゃいけないのかもしれませんね。実際、そういう人が叩かれている世の中にはなっているので、ある意味この国は正常なのかもしれません。
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コメント
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一晩中考えました
公私とは起伏であり内外とは広狭である
標高が高いから裾野が広いとは限らない
ケージとゲージはinflaとinfraは違う
2018/08/04 (土) 10:07:51 | URL | カズラキー #-[ 編集 ]
そうですね、軸の違う概念だと思います。
横軸の概念しかなかった世界に縦軸の概念が導入されたものの、未だに横軸しか認識していない人が(特に上流階級に)多い、という話ですね。
2018/08/12 (日) 17:26:49 | URL | ルロイ #-[ 編集 ]
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