がんだまぁBlog
ガンダムネタだけを語るブログです。
月初のガンダム以外の話「死後の世界の概念」
 あけましておめでとうございます、と言えない事情がありまして、私事ですが昨年末に祖父が亡くなりました。父方の祖父はすでに亡くなっており、今回は母方の方でした。ちなみに祖母は両者健在でして、女性の方が平均寿命が長いというのは本当なんだなぁと思ったりもしています。今回亡くなった祖父は従軍経験者なのですが、実はレイテ沖海戦にも参加していたらしいという話を葬式で親戚から聞き、証拠があるわけではないものの、自分が受け継いでいる血筋というのは先祖がなんとか生き延びてきたからこそなんだなぁと、よくよく考えると当たり前ではあるんですが、そんなことを思ったりもしました。

 という個人的な事情とは今回の話は直接関係なく、ただ遺体というものに改めて向き合った時に感じたことをつらつらと述べます。新年早々の話題としてはどうかとも思いますが、ご容赦ください。

 
 というのも、人間の遺体って、率直に言って人間とは思えないんですよ。確かに人の形をしているし、その姿は知っている人間なんだけど、そこに「魂」が入っていないのがはっきりとわかるんですよね。だから、その人そっくりにつくられた人形なんじゃないかと思ってしまうんです。
 科学的に考えても、内蔵含めて人間としての機能はすべて持っているのに、機能していない状態である遺体というものは、人間そっくりに作られた精巧な模型と何が違うのだろうか、とさえ思ってしまいました。違いは、少し前までその身体には命が宿っていたというだけなのかなと。

 そう考えた時に、人間の心、精神、魂というものが肉体とは別にあるという考え方に行き着くのだろうな、と思ったのです。というのも、残された遺体に、それらが宿っているとはとても思えないからなんですよ。そういう精神エネルギーみたいなものが分離して幽霊みたいに意識を持っている、というのは科学的にはあり得ないことですが、そういう意味ではなく、単純に死んだ肉体に魂があるようには見えないから、どこか別のところに分離してしまったんだ、と昔の人は解釈するしかなかったんだろうなと強く感じました。
 キリスト教であれば、死んだ人の魂は神の元=天国へ行くとされています。これは、「この遺体に宿っていた魂はどこへ行ったのか?」という問いに対し、宗教的には最も合理的な解釈であり、遺された人にとっても安心できる考え方であると思います。宗教的に死後の行き先が明示されているので、逆に言えば死んだ人間が化けて出てくるのではないか、という発想にもあまり至らないんだろうなと。
 例えば、昨年サッカーの1チームを乗せた飛行機が墜落し、チームの人間がほとんど丸ごと死亡してしまうという大変痛ましい事故がありましたが、彼らを悼む世界の人々が、「彼らは天国でサッカーをするのだろう」という前提で悼んでいることに、日本人としてはちょっと違和感があったんですよね。同じような事故が日本であったとして(あっては困るんですが)、そういう解釈をする人がどれだけいるかなと思いました。それは、人間が死んだらみんな同じ場所に行くというのが西洋の世界観で、日本の場合は死者がどこへ行くかはその人次第という考え方だからなんじゃないかなと思ったんです。
 つまり日本的な世界観、仏教をベースにした文化では、死んだ人間の行き先は明確ではないんですよね。「仏様」になったという比喩はありますが、要は一神教的な世界観ではないので、数ある仏の一つになったという解釈が(寺で供養してもらった場合)一般的なわけです。身分は仏様になったといっても、天国のような特定の世界にいるわけではなく、どこか知らない場所にいる、という解釈をされる場合が多いのではないかと思います。だから、お盆など、その時々でたまに現世にも戻ってくる、と考えられているのかなと。
 つまり、キリスト教的な世界観では、死者は(キリスト教を信じていれば)等しく神の御許に行くという前提があるのに対し、日本的な世界観では、死者はどこに行くかはわからない、その辺にいるかもしれないし遠くに行っているかもしれない、という意味で考え方が結構違うんじゃないかな、と思ったのです。
 死んだ人間が実はその辺にいるのかもしれない、という考え方は、大切な人ならともかく、自分が殺した人などあまり顔向けしたくない人の場合、とてつもない恐怖になります。そういう怪談的な話は海外にもありますが、そこに宗教的な正解=本来死んだ人間は天国に行く、という結論が一つある西洋と、それがない日本では若干捉え方が違うのかなという気がします。

 このブログらしくガンダムの話をすると、富野監督はかなり仏教的な世界観を意識していて、ニュータイプにまつわる考え方もそこからの派生であるように描かれていることが多いです。ニュータイプの象徴的キャラクターであるララァはインド系ですし、クェスが修行していた相手もインドのクリスチーナでした。ニュータイプが死者と会話したり、死者の力を借りたりするような描写があるのも、死んだ人間が「天国に行く」のではなく「その辺に宿る」という解釈だからこその世界観です(だからUCの残留思念の解釈はなんか違うんですよね・・・)。この「その辺に宿る」をある程度意識的に「集めて宿す」ことができるのがサイコミュ系の装置なのかなと思います。
 まぁ、そんな死者の概念論の集合体のようなものがイデオンだったりするんですが、そのイデオンではメシアというキリスト教そのものズバリの子が生まれて終わったりして、必ずしも仏教オンリーの世界観ではないのが富野監督らしさであったりもします。ただバイストン・ウェルの世界観なんかも含めて、基本的に仏教ベースの日本人の価値観の範疇ではあるのだろうと思います。この辺は、聖書を思いっきりモチーフにしているエヴァンゲリオンとは対照的ですね。

 とはいえ、実際には、死んだ人間のその後なんてものは、たぶんないと思うんですよ。コンピューターからプログラム「だけ」を抜き出すことは不可能で、メモリなどの媒体が必ず必要になるように、人間の精神も何らかの媒体抜きでは、脳から取り出すことはできないと思うんですよね。だから人が死ぬということはその人の精神もなくなるということで、それがどこかに抜け出ていったように見えるというのは、あくまでも生きている側の人間から見た解釈にすぎません。
 だからこそ、富野監督も最終的には肉体あっての人間だ、という解釈に変容していって、身体的な健全性を強く打ち出していったのだと思いますし、「死者の力を借りる」というのは、死者の精神が生者に味方するのではなく、人の死を糧にして生者が大きな力を引き出していると言った方が正しいのかなと思います。新訳Zのカミーユの覚醒はそういう方向にアレンジしたいという意図があったのだと思いますが、旧作画の流用では旧作に印象が引っ張られてしまい難しかったんでしょうね。

 キリスト教的な考え方は、死者は天国というより良い場所に行ったんだから、生き残った者は離れ離れになったこと以上に悲しむ必要はない、という生者への戒めも含めている側面があるように思うのですが、日本的な考え方の場合、死者は楽しんでいるかもしれないし苦しんでいるかもしれない、それはその人の解釈次第なので、必要以上に生者が死者に縛られてしまう可能性が高いんじゃないかなぁ、と思ったりもします。亡くなった人をできるだけ忘れずに、大切にするという意味では、良い文化であるとも言えるのですが、どちらも一長一短ではあるのかなと思います。
 ただそんな死者や死後の世界への意識の違いを前提にすると、日本や海外の物語の理解も、別の側面からできるんじゃないかな、と思ったのでした。
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