がんだまぁBlog
ガンダムネタだけを語るブログです。
ガンダム Gのレコンギスタ 24~26話
 最終回となりました。主要メンバーがみんなビーナス・グロゥブ製のメカに乗り換えることによって戦争が本格化してると考えると、ベルリたちが地球圏により悲惨な戦乱を持ち込んでしまった形にもなっているような気がしますが…(汗)ジット団が独占していたメカをいくつか分捕ったから対等に戦えたとも言えますが。


○第24話「宇宙のカレイドスコープ」
 ゲミヌス型メカ・ユグドラシルをたおせ!という非常にわかりやすい構図の話でした。アメリアとドレッド艦隊が交渉しようとしていたところを、フルムーンシップの支援を受けたキャピタルアーミィが一方的に攻撃する展開となりました。
 バララはマニィがいない間ヤることヤってたみたいですが(笑)、素直に引いたっていうことはその中でマスクの本命がマニィであるという確信を得られたからなんでしょうね。ただそれで割り切れているわけでもなく、嫉妬心を闘争心に転化して巨大MAで単体特攻、という動きになりました。

 マスクがベルリに対する本心をはっきり吐露するのはこれが初めてかもしれません。マニィからベルリの出自の話を聞いて、なお憎しみをあらわにするあたり、結局この文明が忘れ去られた時代において、戦争を生むのは持たざる者の持つ者への憎しみである、ということを言いたいのかなとなんとなく思いました。今までのGレコの話って、基本的に戦争に関して素人で、どこか緊張感が抜けていて、敵対している組織の人間を平気で受け入れたりしたりしていたんですが、そういう組織の立場上やってる争いから、個人的な感情の発露に移行することによって、より凄惨な殺し合いになるというプロセスを描こうとしているのかな、なんて思ったり。
 その象徴がバララで、彼女の個人的感情からくる行動によって、ドレッドとアメリアの艦隊は両方とも指揮官を失う大惨事になってしまったわけです。前回まで、一人パイロットが死ぬだけで大騒ぎしていたことと比べると、比較にならないくらい人が死んだことになります。おそらく、ビーナス・グロゥブの人々は進んだ人類ではなく、むしろかつてのスペースノイドのように棄民のような形で追い出された人々の末裔で、それ故にクンタラであるマスクと同調して、より凄惨な戦争に突き進もうとしているのかなと。かのギム・ギンガナムの闘争心よりも、もっと根源的な行動のような気がします。

 ただ味方の戦力の充実には驚くばかり。スカートファンネルのGルシファーに、あのGアルケインまでもが新武装を獲得してスーパー拡散メガ粒子砲みたいなのを使えるようになってしまいました。(変形は?)そしてパーフェクトパックは相変わらず強くて、ユグドラシルも難なく撃破してしまいました。

 今回よくわかったのが、ベルリが人を殺さないように気を付けているそぶりを見せていた(けど結局何人か殺してる)のは、やっぱりアイーダに散々カーヒルさんのことを咎められていたからだったみたいですね。それをわかっていて忘れていいと言ったアイーダは、もうカーヒルのことを割り切ることができたのでしょう。クリム達にナチュラルに頭を下げて見せたのも、かつて頭を下げた後悔し涙を流していた姿からかなりの成長が見られます。そういった姫様の成長を見せた矢先の、育ての父のあっけない死に、「うおぉぉ富野の真骨頂キター!」とゾクゾクしてしまったのはイケナイ大人ですね、はい。
 なんというか、富野監督って病を克服してからブレンパワード、∀ガンダムと優しい物語を作って白富野と呼ばれるようになりましたが、最近の毒が垣間見える作風を考えると、黒富野時代の作風も織り交ぜつつあるのかなという気がします。まさに灰富野!

○第25話「死線を越えて」
 大気圏突入というと基本的にガンダムシリーズでは序盤のイベントなんですが、それを終盤に持ってきて、しかもドラマチックに描くというのは新しいなぁと思ってしまいました。Vガンも終盤だけどもうビームシールドで楽々突破でしたしね。
 突入の仕方も様々で、マスクとクリムはパートナーと協力して、ベルリは単独で、そしてアメリア艦は突入のセオリーを知らずに爆砕というクラウンの死が後世に生かされていない(笑)現実を見せてくれました。
 単に突入するだけじゃなくて、軌道上でちょっと高度下げるとヤバいという緊迫感での戦闘が良かったですね。今までもそうだったはずなんですが、過去のガンダムよりもずっとリアルだったような気がします。

 トワサンガの人たちは完全にかませになってしまいました。ロックパイ死んで完全におかしくなっちゃいましたね。愛するパートナーを失ったときの狼狽ぶりは、女性の方が大きいというのが富野的男女観なのかもしれません。まぁ、トワサンガって完全にビーナス・グロゥブと地球を繋ぐだけの中間管理職でしたもんね…。一番微妙な人たちになってしまったというか。

 マニィはGレコの中で一番イマドキのアニメっぽい女の子だと思ってたんですが、最終的に完全に立派な富野ヒロインになっていました(笑)マスクにベルリと戦うのをやめさせようとするも、無理だと悟ると一緒にベルリに銃口を向けるとは…ってこう文字にすると某ニナ女史のようですが、結局女は惚れた男が一番!というここも富野的男女観。まぁでも、マニィはたぶんルインと再会して完全に精神的には夫婦になった感じありますね。クリムとミックなんかもそうですが、ああいう男女の生々しい夫婦っぽさを出せるのは、アニメ界ではもう富野監督くらいしかいないのかもしれませんね。

 最終話に向けて地球に帰ってくるというのは、Vガンダムを思い出させますが、終盤に地球に戻るというところまで見ると∀もそうですね。V以降の富野アニメは、基本的に地球回帰がテーマになってるんだろうなと思います。それ以前は、「人類は地球から巣立つときが来たのだ!」みたいな論調でしたけどね。

○第26話「大地に立つ」
 最終話です。とりあえずミック・ジャック生存おめでとうございます(笑)あれ死んだと思ったわ―、絶対死んだと思ったわー。
 最終決戦でジャブローの遺跡を出してくるところはびっくりしました。あれはさすがにノスタルジーを感じざるを得ないですね。これはシャアとアムロみたいなオマージュをマスクとベルリでやるのか、と思ったんですが、そういう感じでもありませんでした。結局はバッテリー切れに追い込んで、お互い中破するもコアファイターがある分ベルリは脱出、という構図。とりあえずそこまで追い込めただけで、ルインはある程度満足できたんでしょうか。
 最後の最後までベルリ母が出てくるところは割と斬新でした。母親と死別も離別もせず最終回まで健在な主人公って初じゃないですかね?あ、シーブックがいたか。一方クンパ大佐はあっけなく戦闘に巻き込まれて死んでいってしまいました。富野代弁者でしたが、争いのきっかけを作っただけで、あとは若者たちの戦いで傍観者になるだけ、というのが今の監督のスタンスなんでしょうかね。

 最後、フォトンエネルギーが一番でかいやつを狙うとか言いながら結局マスクと戦ってるだけで戦闘も終わってしまったみたいで、どうやって終わらせたのかよくわかりませんでしたね。あれ結局Gルシファーの一撃が決め手だったんでしょうか。最後の攻撃の時のラライヤのセリフといい、Gルシファーの発した光といい、どうも完全にロランのセルフオマージュキャラだったようです。血縁があるかどうかというよりも、役回りが完全にロランでした。思えば、ラライヤというキャラにGルシファーというラスボスっぽい外見で堕天使の名を持つガンダムを与えたのは、文明を滅ぼした究極兵器である(のに主役機で世界を救うという)∀ガンダムのイメージだったのかもしれませんね。

 クリムがアメリアの大統領演説に突っ込ませたのは、やっぱり監督のネオコン共に一喝入れたい!という発想から来てるものなんでしょうかね。どうしても、今回のGレコは素人が憧れとオタク心と技術論だけで戦争兵器を扱うことへの警鐘としてのメッセージが強いなと感じましたしね。
 そういえばジット団で唯一生き残った女の子、ジャイオーンの隊長の子を身ごもっていたんですね。カーヒルとアイーダとか、ロックパイとマッシュナーとか、男性の死を過剰な演出で嘆く女性はだいたいそういう関係だったという演出になっているんだなと思いました。非富野ガンダムとかで、重要人物の死をずっと引きずって復讐に走るキャラクターがちょくちょく出てきますが、実際のところ死別したショックというのは、その人物にどれだけ精神的に依存していたかに比例するわけで、その意味では男女関係こそが一番死別においてショックなんだろうなと、そして男性の方が女性に甘えがちだけど、依存度という意味で考えると女性の方が大きいのかなと、そんなことを考えたりもしました。
 クレッセントシップがメガファウナのクルーを取り入れて世界一周に出るという流れは全く説明がなかったのでよくわかりませんでしたが、クリムが戦死扱いになっていたということは残ったメンバーは既存の所属から離脱して独自の組織を作ったということになるんでしょうかね。そこでベルリだけが離脱して一人で旅に出る流れも割と唐突でした。だがノレドよ、ロランと違って彼はまだフリーだから待っていれば大丈夫だぞ、日本にも監督もどきのじいさんとばあさんしかいなかったからな(笑)

 「大地に立つ」というタイトルはガンダムファンには感慨深い単語ですが、最終話がそのタイトルである明確な演出というのはなかったなという感想です。もちろん、自分の足で歩いて物を見ろ!という意味ではあると思うんですが、作中でそう読み取れるだけの演出があるかというと疑問符がつきます。
 そういう意味で、総じてGレコは「監督の明確なメッセージが膨大に組み込まれているものの、それを作中で発散しきれていない」という印象の残る作品でした。文章で言うと、定められた文字数で書きたいテーマを全部ぶち込んだら、文章構成がめちゃくちゃで何が言いたいのかわからない文になった、という感じです。つまり推敲が足りてないってことになると思います。
 おそらく、富野監督は若いころからコンテ1000本切りの異名を持っていたり、限られた時間と予算の中でバリバリ働いていたんだと思うんですよ。そこでは形にするだけで精一杯で、いわゆる大作映画のようなかっちりとしたスケジュールで緻密な脚本と演出で芸術的に描く、なんて世界とはかけ離れた環境だったんだと思うんです。だから、自分の作った作品を、他人が見ても分かるように整理する技術、という部分を全く培ってこなかったんじゃないかなと。そういうことをする時間的余裕があるなら、全部自分のメッセージをつぎ込む時間に使ってしまうのかなと思うんです。ただそれは、見る人の立場を考えない一方的なメッセージなんだろうなと思います。
 だから確実に言えることは、富野監督に必要なのは、やりたいことを汲み取った上で、より分かりやすく再構成することができる人間、それがシリーズ構成でも脚本家でもいいんですが、そういう存在なんだろうと思います。そういう人がいたから、ファーストガンダムだけは広く受け入れられたんだろうなと。そこはGレコにおいてより顕著に出たなという印象です。だから、やはりその推敲されていない難解な文章を一生懸命読み解こうとすることができる、富野ファンでないと良さがわからない作品になってしまったなというのが結論です。

 その上で言えば、Gレコで印象的だったことは2つ、「平和な時代の戦争」と「男女観」だったなと思っています。
 前者はまさに作品の根幹のテーマというべきもので、過去の戦争の惨禍の反省から、軍事力がタブー視されている世界で、それを頑なに守る人間と、知らないからこそその力に憧れてしまう人間と、現実的なビジョンとしての必要性を検討する人間とがいて、そういう状況で過去の超兵器が持ち込まれた場合どうなるか、という話でした。∀ガンダムも過去の超兵器を発掘する話でしたが、あれは未来人VS現代人のようなテーマであって、現代人が超兵器をどう扱うかがテーマではなかったんですよね。むしろ、続編構想があったという∀ガンダムのその後としての物語、黒歴史の力を手にしたその時代の人類が、その兵器をどう扱うかという発想から作品作りが始まったのかなと感じさせる側面があったと思います。
 物語として、過去の技術は一体どうなっているんだと金星まで確かめに行って、そこで超兵器を手に入れて持ち込んだら大戦争が始まってしまったというのがたぶん一番盛り上がるところだったんだろうなと思いますね。そういう意味では、序盤の展開をもう少し省略して、中盤にビーナス・グロゥブを持ってくるくらいの方が話としては面白くなったのかなという気がします。もし再編集して劇場版とか作るなら、ビーナス・グロゥブに行くまでが前編で、その後が後編にして22話以降の比重を大きくした方がいいかなと思います。
 おそらくは、ガンダム的な、ロボットを軍用兵器として扱うアニメが当たり前になった時代において、それが軍用兵器だってことわかってる?殺し合いだと思って演出してる?っていう富野監督のオタク業界への投げかけでもあったのかなぁと感じました。

 後者の男女観については、個人的に印象に残っただけなんですが、異性という存在をキャラクター化しすぎることへのアンチテーゼの側面があったのかなと思いました。初期のクリムとミック、マスクとバララのような、女性が男性の浅はかさをバカにしつつもその将来性に期待して従ったりとか、後半の互いに切っても切れない関係になった状態でのクリムやマスクのパートナーへの自然な配慮とか、マニィのベルリへの感情とか、いわゆる一般的な昨今のアニメでのカップリング的な発想では絶対に出てこないような演出が非常に多かったと思うんです。今は男性向けも女性向けも、異性キャラクターのアイドル化というか、「自分にとって都合のいい反応をしてくれるだけの異性」を商品として売っていて、結果的に本物の異性との付き合い方の選択肢を狭めているんじゃないかという状況があるのかなと強く感じる部分があるので、そこに真っ向から対抗するような演出をしてくるGレコは非常に斬新に感じましたし、こういう演出が他のアニメでももっと増えてくればなぁと思いましたね。
 なんというか、こういう2つの側面での素晴らしさを感じるとともに、それを誰が見ても分かるような形に加工することができない富野アニメのもどかしさ、というものを改めて感じるアニメだったなぁと思いました。


 始まったころは、これはF91~V時代のガンダムとか、Z以降とか、非富野ガンダム含めてとかのリフレインの話なんかもしましたけど、結局はそういう過去のガンダムはあくまでも過去のものであり、それらが過ぎ去ったあとの時代を生きる人たちが、どう生きていくべきなのかという話だったのかなという感想です。そういう意味では、時代設定的には前であっても、やっぱりこれは∀ガンダムの後に作られた話だなと思ったのでした。それでも時代設定を前に持ってきたのは、宇宙世紀の記憶がある程度残っている時代にしないと、まだ第二次世界大戦の痕跡が残っている現代に合わないと思ったからなんでしょうね。

 個人的には、ファーストガンダムは決して戦争を描くのがテーマだったわけではなくて、戦争中の時代を舞台にした十五少年漂流記だったと思っていますから、そういう意味ではもう少しGレコには宇宙海賊の冒険譚、的な面白さを求めたかったなぁと思っています。船長は姫様で、用心棒は死んじゃった(カーヒル)けど代わりに主人公が務め、記憶喪失の少女ラライヤや主人公の先輩ケルベスを脇に、トワサンガのリンゴなど敵勢力からも仲間を加えつつ世界の果てにある秘密を目指す、というのは十分少年漫画的要素を満たしてると思うんですよね、それこそワンピースのように。
 ある程度一般に通じる王道的な路線を踏襲しつつ、富野エッセンスを混ぜ込んでいく手法を取ればなぁ、と思わざるを得ないのでした。

 あー、Gアルケイン変形しなかったなぁ。
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テーマ:Gのレコンギスタ - ジャンル:アニメ・コミック

コメント
コメント
 お疲れ様でした。録画の消化が遅くコメントはしませんでしたが、視聴後にこの感想を読むのが楽しみでした。
 20話を過ぎたあたりで個人的に感じ始めたのが「Gレコって全26話のアニメではあるけれど、設定やストーリーは4クールのガンダムとして作られたようにしか見えない」ということでした。メカや勢力の過密状態とか、たまに総集編と錯覚しそうな話の展開の仕方をするところとか。Gセルフも主役機交代なしで1年戦えそう。「眺めてるだけで楽しい」という富野ガンダム固有の良さが健在なのを喜ぶ一方で、あまりにゴチャゴチャしてる部分で「作っててなんとも思わないのか」とイライラする・・・という視聴感覚は同じく?一年分を圧縮した劇場版ゼータを思い出しました。登場人物の心理描写なんかは完全に割りを食ってますね。
 そんな具合でルロイさんのGレコ総評については私も同意見です。他人が見てもわかるように書いてくれない点なんかは昔のノベル版でも感じましたし(艦隊の位置関係がよく分からんけど、少なくとも富野監督の頭ではちゃんとイメージして書いているのは伝わってくる、など)。やっぱりガンダムの制作現場で富野由悠季に意見できる人とかいないんでしょうか。富野ガンダムのもう一つの楽しみである(と自分は思う)監督の時代性を含んだ思想・主張がこのような表現になってしまったのはもったいないと思わずにいられません。
 まぁカンダムの新作を作ったら一年流せそうな文量が出てきた、という事実は何げに嬉しいんですけどね。「もしもGレコが全50話だったら」という想像も楽しそうですね。
2015/04/06 (月) 23:35:11 | URL | ネイ #A9d9gvog[ 編集 ]
ありがとうございます。
インタビューの感じなどから察するに、富野監督は2クールであることを全く考えずに考えていたことを全部つぎ込んだ、という感じだと受け取っています。次いつ仕事が来るかわからないから、というのもあるのかなと思います。

富野監督は自分は絶対に正しい、という信念を持てる人だと思うので、それに真っ向から「あんたは間違っている!(ドモン風)」と言うのは同じくらい信念が強くないと難しいんだろうなとは思いますね。
それも含めて監督の魅力ではあるんですけど、人物の評価と作品の評価はまた別なので、そこは常に分けて考えていたいとは思っています。信者脳というのが大嫌いなので。

ただガンプラを売ってやろうという意志はすごい見えたので、スポンサー様にはまたチャンスを与えて欲しいな、と思ったりします。
2015/04/29 (水) 13:28:43 | URL | ルロイ #-[ 編集 ]
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