がんだまぁBlog
ガンダムネタだけを語るブログです。
月初のガンダム以外の話「体罰といじめとセクハラと」
 今までの人生で一番多忙な状態なのですが、隙間をぬってなんとか更新。久々にちょっとまじめなネタです。

 昨今体罰の問題がマスコミを賑わせているようですが、こういう話題になると必ずどこかで出てくるのが、「どこまでやると体罰になるのか」という話。それがわからなくなるから、指導する側がどう接したらいいかわからないとか、いつ訴えられるかわからないから怖いとか、そういう発想が出てきます。セクハラなんかでも、未だに「どこまでやったらセクハラか」というガイドラインみたいなものが提示されていたりします。
 でもこういうのって、程度の問題じゃないと思うんですよ。グーで殴ったらどうか、パーで叩いたらどうかとか、そういう次元の話ではないんです。結局のところ、何を理由にして罰を与えたのかという根拠が問題なのだと思います。なのに、そういう発想がマスコミとかからは全くと言っていいほど出てこないんですよね。それどころか、「体罰」や「セクハラ」といった言葉そのものだけを強調して、それが何が何でも絶対にやってはいけない行為であるということは報道するものの、具体的にそれがどのような行為を指すのか、というところを掘り下げようとはしません。「いじめ」についても同様です。何故いじめられてしまったのか、何故いじめはエスカレートしてしまったのか、その背景には全くと言っていいほど、触れようとしません。
 これでは、全く抑止力にはなりません。なぜなら、実際に体罰やセクハラ、いじめという行為があって問題になったとしても、当の本人はそれがそういう行為であると思ってやっているわけではないからです。だから当然体罰を行った張本人は「指導の一環だった」と言いますし、教師が「いじめとは思えなかった」と言ったりするのです。これは虐待やDVなんかもそうですが。
 当の本人が体罰だと思っていなければ、周りが体罰だと言っても本人はなかなか反省しません。そのためまた同じことを繰り返す可能性さえあります。人間は、なぜいけないのかを理解しないと、その行為をやめません。

 では、何故当の本人がそのつもりがないのに、相手はハラスメントであると感じるという事態が起きるのか。その要因は一つではないと思いますが、基本事項として共通するのは、「相手を本質的に見下している」ことが挙げられるかと思います。
 本来、「罰」というのは「制裁」のために用いられるものです。罰を受けるには、相応の理由があるということです。逆に言えば、相応の理由がないのに罰を与えられるのであれば、それは理不尽ということになります。そうして行われる体罰が、問題として生じるという構図です。
 何故相応の理由がないのに罰を与える人間がいるのか。それは、罰の相手が本人にとって価値の低い人間だからです。基本的に、人間は他人を傷つけることに罪悪感を感じます。他人が自分と親しい人間であればあるほど、その罪悪感は強くなります。どんなに命が平等だと言っても、肉親の死と赤の他人の死を平等にとらえる人間はほとんどいません。
 普通に考えて、子供を大切に思っていれば必要以上の暴力は振るわないし、大事な友達だと思っていればいじめないし、大切な女性に対してセクハラはしないはずなんです。してしまうのは、その本人にとってその程度の存在でしかないからなのではないでしょうか。

 教師が生徒の上に立つのは当然ですし、社会や組織において上下関係は必要です。ただ、だからと言って下の者が上の者に比べて「人間的に」劣っているわけではありません。能力や経験においての優劣は当然あったとしても、だからといって人としての価値が低いわけではないのですが、中には「人間的に」下の者が劣っているとみなす人間がいます。もっと言えば、「役割上」の上下と「人間的」な上下を混同してしまう人間がいるということです。
 こういうタイプの人間は、いざハラスメントをしないように、と思っても加減がわかりません。セクハラをしないように気を付けても、女性をそういう対象としか見ていない限り何をしてもセクハラと捉えられてしまいますし、体罰教師は体罰の基準が自分の気分に左右されるため、実際に手を出さなくても態度に出てしまいます。
 要するに、欧米風にいうと「リスペクト」が足りないのです。どんなに自分より下の立場の人間であっても、全く見知らぬ他人であっても、「最低限の敬意」がなければ人間は社会からはじき出されてしまうということなのではないでしょうか。

 例えば、芸能人がインターネット上の書き込みなどに対して反論するとき、どうもネット上にいるのはひきこもりとかニートの類であるということが前提であるかのように発言することが多々あります。しかし、インターネット上で客観的にわかるのは、匿名であるということだけです。もしかしたら、ネット上で発言しているのはえらい学者や企業の若社長かもしれないですし、大物芸人を叩く書き込みをしている人間が、その後輩の芸人である可能性だってあるわけです。なのにそれを想定できないというのは、本質的に自分が特別な人間であり、匿名の書き込み=有象無象の一般大衆は自分に劣る人間に決まっていると決めつけている、差別意識の表れとも捉えられます。
 そのカウンター現象である「炎上」という現象も同じです。問題を起こした人間であれば、どんな汚い言葉を浴びせてもいい、社会的につぶれてしまってもいいという発想は、いじめの論理と変わりません。問題を起こした人間=何をされても仕方ない人間、ではありません。

 だから重要なのは、他人に対する、最低限の敬意なのだと思います。それが備わっていれば、体罰だのセクハラだの言われることはありませんし、相手が自殺をするほどのいじめをするようなこともないはずなのです。
 なのにそのことをマスコミなどが伝えられないのは、そういう立場にいる人間たちにこそ、そのような最低限の敬意が足りていないからなのではないでしょうか。マスコミにしても、学者にしても、芸能人にしても、政治家にしても、全員ではないでしょうが、皆自分が特別な立場の人間であると思っており、実際に平均をはるかに上回る収入や一般人が立ち入れない領域に対する権限を持っています。しかし、だから一般大衆に敬意を払わなくてもいいというわけではないと思うのです。
 どんな人間に対しても、最低限の敬意を持つべきという教育が、まず高い権限を持っている人間に足りていないような気がします。

 本来、「最低限の敬意」は「人権」という言葉とほぼ同義であったのだと思いますが、この「人権」という言葉もまた、体罰やいじめとは逆の意味で、絶対不可侵の聖域のように扱われており、何故人権を守ることが大事なのかということになかなかたどり着きません。それどころか、「どんな人間も、偉い人のように傍若無人にふるまうことができる」というような意味で使われてしまっているような気がします。権利を武器として使う人種によって、人権が誰でも「最低限の敬意」をかなぐり捨てることができるという権利にされてしまっているようです。

 どんな他人にも最低限の敬意を抱くことができるかどうか、というのは、要するに他人に対するデフォルト評価が高いか低いかであり、それは裏を返せば自分へのデフォルト評価の高さで決まると言えます。つまり主観的自己評価が高い人間は、他人を見下す傾向にあるということです。
 人に敬われやすい立場、世間を動かす力がある立場、高い実績を残した立場にある人間の自己評価が高くなるのは当然のことではあるのですが、デフォルトの自己評価というものはどちらかというと幼少期に築かれるものであるように思います。簡単に言えば、親より自分の方が偉いと錯覚してしまった子供は必要以上に自己評価を高く持ってしまう傾向にあるようです。
 本来下の立場をしつけるべき人間が、実はちゃんとしつけられていないまま大人になっている時代なのかもしれません。
スポンサーサイト
コメント
コメント
貴ブログいつも楽しく拝見させていただいております。


>つまり主観的自己評価が高い人間は、他人を見下す傾向にあるということです。

自己評価が高いと他人を見下すだけでなく、「自分を蔑にされた」と感じた際の怒りが、普通の人より大きくなるので、体罰やセクハラに繋がると思います。

柔道で言えば「(メダルが少ないことで)偉大な指導者である俺の顔に泥を塗ってくれたな!!」と感じるほどに、主観的自己評価が高いんでしょうね。

主観的自己評価が高すぎなければ、部下の失敗で自分が傷つくことになっても、過剰な暴力を振るうまでには激高しないはずですから。
2013/02/10 (日) 16:13:07 | URL | #-[ 編集 ]
いつも楽しみに読ませて頂いてます。
一つ補足させて頂くと、相手を大切に思うほど暴力的になってしまう人も居ます。そういう人は、対象に愛やリスペクトが無い訳ではありません。感情のコントロールが出来ないのです。 所謂、ボーダーライン等はその典型です。
何が言いたいかと言うと、
DVの様なものと、今回の体罰の話しは、別の問題だと私は思います。


体罰を受けて成長した人間は
体罰を肯定し繰り返します。
それは一種の自己肯定なのかも知れませんね
『賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ』というやつです。


2013/02/18 (月) 19:52:16 | URL | にゃあ #-[ 編集 ]
頭でだけ理解してるのかな
とても素晴らしい意見だと思います。「リスペクト」、「最低限の敬意」。まさに問題の本質はそこにありますね。でも、なんか口先だけっぽい雰囲気が文章の端々から滲んでるのは何故なんでしょう?
ルロイさんもぜひ自転車で車道を走ってみてハラスメントされる側の気持ちを理解して欲しいと思います。1時間も走ればイヤってほどわかると思いますよ。
そうすればもっと文章に真実味が出てくると思います。
2013/02/23 (土) 11:45:56 | URL | 竹渕慶 #/d4JJU.o[ 編集 ]
>名無しさん
ただスポーツで実績を残しただけであれば、たぶんそこまで人は勘違いしないと思うんですよね。
現実には、スポーツで実績を残した人間が多くの人から褒め称えられたり、マスコミからちやほやされたり、スポンサーから接待されたりすることで、スポーツ選手ではなく王様のような気分になってしまうんだと思います。
そこで自分の実績と自分の人間的価値に剥離が生じてしまって、主観的自己評価だけが上がってしまうんじゃないかなと思いますね。

>にゃあさん
DVについては「自分では相手に悪いことをしている自覚がない」という例として挙げましたが、体罰等とは背景が違いますね。

体罰を受けた人間には、自分が苦しい思いをして成長したのだから、同じように苦しめなければならない、という意図が働いているのかもしれませんね。
逆に自分のように苦しい思いをしてほしくない、という人であれば違うのですが…。

>竹渕慶さん
いつぞやの自転車の交通ルールの話をしているのであれば、
あれは他に通れる場所があるのにあえて危険な車道を走る高齢者の自転車のことを言ったのであって、
全ての自転車を指して言ったわけでもないし、自転車が車に合わせろという話でもないですよ。
勘違いなさらないようお願いします。
2013/03/02 (土) 14:02:07 | URL | ルロイ #-[ 編集 ]
テーマから外れて自転車の話ですが。
それはドチラかというと。
お年寄りはお上が決めたことは例えどんな無意味なことでも律儀に守ることを信条にして生きてきた人が多いから起きたことではないかと。
私が通っていた保育園の園長さんが聞いた話なのですが。
知り合いがあの震災の時にたまたま向こうの方(県名忘れた)にいて津波に遭遇して。
車で通りがかりの人たちを拾いながら車で逃げていたのですが。
その途中でお婆ちゃんに遭遇して、もちろんお婆ちゃんもひろおうとしたのですが。
「それ以上乗ると道路交通法違反になるから私は乗らない!」といって頑なに固辞してそのまま走っていってしまったそうです。
で、まあもちろん話をしている知り合いは生きているわけですが。
車でもギリギリのタイミング出会ったことを考えると徒歩のお婆ちゃんが生きている可能性は低いであろうと。

まあもちろん緊急時には道交法は破っていいのですが。
つまりお上が自転車は車道を走ると決めたから、どんな時でも車道をつかっているのではないかと。
2013/03/14 (木) 22:16:42 | URL | DN #mQop/nM.[ 編集 ]
なるほど。ある意味日本の戦前までの教育文化がいかに浸透していたかみたいな話ですね。
振り込め詐欺とか健康食品の宣伝とかにだまされちゃうのも、そういう側面があるのかもしれませんね。
2013/03/15 (金) 20:42:18 | URL | ルロイ #-[ 編集 ]
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
copyright © 2017 がんだまぁBlog all rights reserved.
Powered by FC2ブログ.