がんだまぁBlog
ガンダムネタだけを語るブログです。
新訳ZにおけるカミーユVSシロッコの意味
 Zガンダムという作品において、シロッコがラスボスとなる背景はかなり見えにくいものがあります。旧訳の場合は、カミーユが出した結論が「己の身を犠牲にしてでもこの戦いを終わらせる」ということであったため、戦いを生む源となっていながら直接手を下さず、裏で傍観者を気取っているシロッコを倒すことが最終目標になったとも言えます。
 それに対し、そこまで思いつめなかった新訳でのカミーユの最後の敵は、なぜシロッコになり得たのでしょうか。

 結論は、半分くらい以前の新訳考察で述べているのですが、要するにシロッコがラスボスとなり得たのは「人を道具として使う」人間だったからです。それ故にサラ、レコアというカミーユとも心を通わせたことのある女性が戦場で消費されていくことを、許せなかったということになります。しかも、サラの死はカツの死の遠因となり、レコアの死はエマの死の遠因ともなっており、単にサラとレコアが犠牲になっただけでなく、そのせいでカミーユの脇にいてくれた人たちまでもが犠牲になってしまいました。
 つまり、カミーユの築いた人間関係をめちゃくちゃにした敵、というのがシロッコの立ち位置になります。

 そもそもカミーユは、ティターンズと絡んでしまったがために両親を殺される羽目になり、エゥーゴに身を寄せる以外の選択肢を持たされていないキャラクターでした。そんな中で支えとなっていたのが、エマとレコアという2人の女性であると言えます。
 また、サラという少女は、シロッコの意のままに動くニュータイプでした。カミーユにはフォウを救えなかった経験もあってか、シロッコの道具に成り果てているサラの目を覚まそうと様々な説得を試みます。しかし、弟分(?)であるカツに想いを寄せられていたサラは、暴走してシロッコを狙おうとするカツの前に立ちふさがり死んでいってしまいます。その後、カツは半分自暴自棄となっており、一度はその暴走をカミーユが止めたものの、その後カミーユがジェリドと戦っている間に、ヤザンとの戦いで無理に深追いし死んでしまいました。
 レコアは、一度は戦死したと思われていましたが、実際は生きており、しかもシロッコの元につくという想定外の事態が起こりました。カミーユとしては、なぜレコアがシロッコに走ったのかを理解することは困難であったと思います。その上、レコアはシロッコの作ったMSに乗ってエマと刺し違えてしまいました。信頼していた2人の女性もまた、シロッコのせいで失うこととなってしまったのです。
 このことからシロッコは、カミーユが救いたかった2人の女性を戦場に送り出し、死なせたようなものであるとカミーユは認識できたと言えます。もちろん、シロッコがその時のティターンズの最高指揮官であったことも間違いありませんが、カミーユ自身の戦うモチベーションは、すでにティターンズという組織ではなかったのではないかと思います。

 そもそも、ファーストガンダムにおけるアムロもまた、決してジオン軍を明確に敵対視して戦っていたわけではありませんでした。もちろん住処を襲われた相手であるため、敵意はあったと思いますが、最終的には連邦軍の兵士として正式に任官したことにより、任務として遂行したにすぎません。ただ、最後にシャアとMSを降りてまで一騎打ちしたのは、極めて個人的な因縁でしかありませんでした。シャアにとってアムロはララァを殺した最強のニュータイプであり、味方にするか殺すかの二択しかない相手でしたが、一方のアムロにとっては、ララァという非軍属の少女を戦争に参加させ、自分の盾にして死なせた上に責任も負わなかった(ララァは死にゆく運命だったのだ、とか言っちゃうので)卑怯な男でした。その上無視して軍務に集中しようとする自分を付け狙ってくるので、全力で反撃したという感じです。
 カミーユもまた、成り行きでエゥーゴに参加し戦っている中で、シロッコだけは個人的に許せない理由があった、ということになります。

 また、アムロは最終的に、帰りを待ってくれている仲間たちがいることにより救われます。一生懸命戦ってきて、何が残ったかよくわからないけど、とりあえず一緒に戦ってきた仲間たちとの絆は残ったのだ、というのがファーストガンダムのシナリオでした。
 その点、カミーユの場合その仲間たちまでもを、シロッコに奪われてしまいます。母艦とブライトは無事であったものの、カミーユが個人的に気にかけていた女性がみんな死んでしまったのです。ただ、最後にファだけは残っていた、という点においてカミーユは救われたというのが、新訳のシナリオです。

 つまり新訳Zは、両親を殺されたカミーユがエゥーゴに参加する中で色々な女性と接点を持つものの、その大半をシロッコに奪われ、それでも最後に待ってくれていたファの元に帰る、という話としてまとめることができるのです。
 そう整理するとシンプルなのに、しっくりこないのはいくつか理由があります。まず、シロッコの側にカミーユとの因縁がないことですね。アムロとシャアは相互にララァを失うという因縁がありましたが、シロッコはカミーユに対して直接的な因縁を持っていません。サラやレコアの死に、カミーユは関わっていないからです。
 もう一つは、はっきり言ってサラとレコアという、カミーユとシロッコを繋ぐキーとなる女性に、あまり魅力がないことです(苦笑)。サラなどは、TV版当時にボリノーク・サマーンがプラモ化しない要因に挙げられるくらい人気がないと言われていたキャラです。レコアも、描き方が男性から見て魅力を感じるものではなく、また作中においても特別な力や背景を持ったキャラではありません。
 新訳Zは旧訳の物語を再構成し、対立軸を変更することで健全な物語となりましたが、そのためにより重要度が上がったキャラクターが、そもそもそういう器にあるキャラクターではなかった、ということが問題点だったのかなと思います。

 形としては、むしろハマーンがレコア&サラのポジションであった方が整合性が取れていたりもしました。ジオンの摂政をやらされているニュータイプの少女で、シャアに想いを寄せているがカミーユとも感応するものの、最終的にはシロッコに協力する、という展開にすれば、シロッコの元につくというレコアの要素と、救いたくて救えなかったというサラの要素を同時に満たすことができます。エマを撃墜するも、シャアの攻撃からシロッコを庇って死ぬことにすれば、サラとレコアのイベントを消化した上でシャアが人類に絶望する伏線にもなったりして。まぁ…最大の問題はそんなハマーンは見たくない、ということですが…(笑)
 まぁでも、元々ZZに続かない話にするのであれば、ハマーンとは別の女性キャラクターを用意してしまうのも手だったかもしれませんね。人気のあるキャラなので、カットするのも難しいかもしれませんが。

 とにかく、新訳においてシロッコが最後の敵となったのは、サラとレコアを通してカミーユにとっての最大の敵となったからだ、ということになります。だから冨野監督はレコアというキャラを一度削ろうとしてやめたし、サラとのエピソードを極力カットしなかったのでしょう。ただ、旧訳においてサラとレコアがそこまで重要なキャラクターではなかったが故に、元々のキャラの設定と新訳で与えられた役割にギャップが生じてしまったのだと言えます。
 ある意味では、サラとレコアは新訳Zの作品としての出来を象徴するキャラクターだったのかもしれません。
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「身体を通して出る力」理性と感情の二元論
カミーユの言った「身体を通して出る力」がポイントかなと思います。
シロッコに共感できるポイントでもありまして、そんなものがMSを動かせるはずがないと、私も思います^^

オカルトだから、ということで思っているのではなくて、
理性よりも感情を中心にして、世界の在り方とかMSの動き方とかを理解しているのですから、それが人間の「知識」だと言われると納得できないものを感じます。

カミーユは、感情を爆発させることで突破口をひらいてきました。
ロザミアを殺すときも、幻聴とも思える「他者の声」によって何とか自分なりに納得し、ランチャーのひきがねを引いています。

シロッコも極端な人物として描写されていますが、富野監督が生きた時代には、「生の感情」を爆発させたような、情動が優先する民間運動が盛んで、その運動が「世界的なテーマ」であるかのように報道されていました。

それが違う世代の作家の作品パトレイバーになると、「環境保護運動家」が時代遅れのテロリストのように描写されていますし、「Zガンダム」のように主人公陣営ではないところに、かえって「Z」の特異性があると感じます。

「Z」は、エゥーゴという主人公の属する組織を、「当事者の主観的な感情」に従って描写して、それに視聴者が共感する作品か?
それとも、富野さんの企画書に、メラニー・ヒューカバインはユダヤ人の陰謀家で、ユダヤ思想の復活をねらっている人物だったとあるように、本当はシロッコ率いるティターンズこそが、≪ユダヤ的「約束の地」願望によって荒れ狂う、ジオン・ダイクン以来のスペースノイド思想≫に修正を加える存在なのではないか?

シロッコがシャアとは対極の人物で、しかもシャアがシロッコに勝てないのは、シロッコこそがスペースノイドとアースノイドを統合できる人物だという事実の裏返しであると思っています。

ただ、シロッコはその政策実現において、弱者の切り捨てを許容しています。それこそ管理人さまが論述されていた内容だと思いますが^^
その一点に感情を集中することで、カミーユは「理性知識の大家」シロッコを倒すことができたのだと思いました。

こういう部分は、新訳Zが手をつけられなかった部分で、だから第三部を上映するとき富野監督が「MS戦をつなげていけば、演出は何とかなると思った」と失敗を反省しているのだと思います。

ZガンダムTV放送から25年経った今では、改革の痛みが必然だと見なされる一方で、感情への配慮も優先される、、、そんな人が求められる時代になったと感じます。それこそ富野さんが求めた(反発しあう)「理」と「気」の調和ではないかなと思いました^^
2012/12/20 (木) 23:42:44 | URL | 巫俊(ふしゅん) #-[ 編集 ]
シロッコ自身にラスボスとしてのオーラが元々無かったんでしょうね。MSがよく使えるし、頭もいいしニュータイプだけどシャアやハマーンみたいなパワーがない。

当人が最も嫌がる情念というものが最後の大とりを務める人間には必要なんでしょうね。だから後に富野さんが作り上げたラスボスは素晴らしくパワーにあふれてる。

カミーユが壊れる最後のひと押しになれるほどの力も物語の都合だったのかなと。
2012/12/21 (金) 20:09:03 | URL | ドクトルK #-[ 編集 ]
「Define」ではレコアが傷心のカミーユを慰めたり、ガンダムに乗るように励ましたりするなど、かなり目立っている印象を受けます(クワトロの指示でやってるわけですが)。

このへんのレコアの活躍?ぶりも、劇場版の不完全燃焼を反省してのことなんでしょうかね。
2012/12/22 (土) 23:27:54 | URL | #-[ 編集 ]
>巫俊さん
TV版のテーマは、感情をもって組織の論理を突破するというものだったと思うので、
仰るようにカミーユがシロッコを倒す形になったのだと思うんですよね。
それに対して劇場版の場合、時代の流れや結末を変えた再編集に合わせて物語が変わっていて、
テーマも個人対組織の対立軸とはちょっと違うものになっているんじゃないかと思ったんです。
そこがはっきりしないまま完結してしまったことも一つの問題だと思うのですが、
自分としてはその新しいテーマが、隣人を大切にできるかできないかという一点に絞られるべきものだったんじゃないかと思ったところです。

>ドクトルKさん
シロッコはアマンダラ的な黒幕としての部分と、ファーストのシャア的な天才ライバルとしての部分を中途半端に併せ持っていたキャラだったと思います。
裏設定上は普通の人間ではないということなのですが、冨野監督は人間臭いキャラを描いてなんぼの人なので、その真逆のキャラは難しかったのかなとは思いますね。

>名無しさん
Defineはまだ最初の方しか読んでいないのですが、Zにおいて納得のいきにくい描写に対して徹底的に説得力を与えることを重視しているイメージがありますね。
まぁタイトルの意味が「定義する」なんでまさにそのための作品なんだとは思います。
2012/12/28 (金) 19:24:47 | URL | ルロイ #-[ 編集 ]
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